「自分が生きる目的をしっかり持とう!」と、職場や学校で口酸っぱく言われた人は多いと思う。
ライフプランセミナーという、老後の人生についての講演を行う企業もあるそうだ。
現代人が人生の目的や意味に執着しているのがよくわかる。
だけどあえて言いたい。
人生の目的や生きる意味ってのは本当に必要なの?
絶対いらん!とは思わないけど、無理やり持つ必要はある?
ここでいう「目的や意味」ってのは長期的なもの。
例えば「○ヶ月以内に5kgダイエットする!」みたいな短期的なものなら、生活の刺激やモチベーションアップのために十分ありだと思う。
人生の意味や目的に縛られなくていいし、どうせいつか死ぬんだから自由に生きればよくない?
って感じるんだけど、どうだろう。
結局今をどう生きたいのか?
人生の目的を無理に持つより大切なのは、今あなたはどう生きたいのか?
これを明確にしておくことじゃないかな?
自分にとってなにが幸せか?
それを知ることと同じだ。
職場と家の往復だけの生活だと「毎日が同じ繰り返しでつまらない、生きがいが感じられない。」という感覚になりやすいんじゃないだろうか。
僕はそうだった。
人生の意味や目的に縛られ過ぎては本末転倒
人生の意味や目的を持つことに縛られ過ぎては元も子もない。
病んだ状態で将来を考えても、ポジティブな考えは浮かばないし余計ストレスが溜まるだけだ。
自分の人生を本気で考えたいなら、余裕のない状態から自分を解放する必要があると思う。
どれだけいい企業にいようが立派な業績を上げようが、心が病んでしまっては終わり。
うつ病で退職して地元に戻らざるを得なかった人や、業務中に過労で倒れて救急車で運ばれた人…そういう人らを僕はたくさん見てきた。
あなたも同じような心当たりがあるはず。
僕自身も会社員時代に「ロープで首吊ったらどんな世界が見えるのかな…」とか本気で考えたことがあるし、そんなおかしな状態に陥っても自分で気づくことができなかった。
まさに会社に支配された人生…社畜そのものだった。
自分の人生を歩いているつもりが、実は敷かれたレールに載せられていたに過ぎなかった。
「人間は環境の生き物」という通り、1つの環境だけに染まってしまうと思考や価値観が凝り固まってしまう。
心が病んでもそれが当たり前だと錯覚してしまい、知らず知らずに自分を追い詰めていく負のスパイラルに陥る。
心が病んでからでは手遅れだ。
一度きりの人生なんだし自由気ままに生きてもいい
今の時代、とんでもない速度であらゆるものが変化しつつある。
スマホやSNSが世界中でここまで普及するなんて誰が予想できただろうか?
ぽっと出のウイルスが世界中を混乱に陥れるなんて誰が想像できただろうか?
新卒で入った会社に40年以上ずっと勤めて定年退職…という未来をあなたは想像できるだろうか?
10年後の未来を予想は出来ても、実際に何が起きるかはタイムリープでもしない限りわかるわけがない。
未来予想が正確にあたるパターンなんて稀だ。
例えば今いる会社を辞めても居続けても、いずれにせよデメリットはあるんだからそれを考え過ぎてもしょうがない。
あらゆるチャレンジにはリスクが付き物だから。
僕は会社の労働をほっぽり出して、自由気ままに生きる人生を選ぶことにした。
一度きりの人生で一番の悪手は、無駄なことを無駄に頑張ることだから。
どうせいつかみんな死ぬ
あらゆる命にはいつか終わりの日が訪れる。
これを避けることは現代の医療・科学技術では不可能だ。
だから大切なのはその終わりの時期ではなく、生きている間に自分の人生をどれだけ後悔せずに過ごせるか?
人が死ぬ間際に一番多く残す言葉が、自分の人生への後悔らしい。
- 「どうして若い時に○○をやっておかなかったんだ…」
- 「もっと自分に正直に生きればよかった」
- 「××を旅行したかったけど、足腰が悪くてもう無理だ…」
などと死に際に呟いても、残念ながら時すでに遅し。
一度きりの人生だし、死ぬ間際に後悔の言葉を残さないように生きるのが理想的な人生かもしれない。
生きる目的や意味を無理やり持ったところで、そんなものはまやかしだ。
もう少し目の前の生活にフォーカスを置いてもいいんじゃないか?
幸せに大きな刺激なんていらなくて、夜ぐっすり眠れたとか、散歩中に自分の知らなかったきれいな景色を見つけたとか、新しく考えた料理のレシピが上手くできたとか、ベランダで野菜を育ててみるとか、淹れたてのコーヒーを飲みながら自宅で映画を楽しむとか…。
そういう小さなものの積み重ねこそが人生を豊かにする、そんな気がしている。
目の前の生活に集中していたら、やりたいことの1つや2つは出てくるんじゃないか?
まぁ出てこない場合もあると思うけど、じっくり気長に待てばいい。
どうせいつか死ぬんだから気の赴くまま、風の流れるままに人生を楽しもう。
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