先週、北海道の実家に帰省してきました。
高い出費だったけど避暑にちょうどいいし、地元にいる家族や友人、帰省してきた友人と会う貴重な時間なので。
家族や友人と色々出かけたり飯に行ったり、結構バタバタしていてゆっくりする暇があんまなかったですね。
ホントはもう少しダラダラしたかったけど、人との約束だから仕方ない。
どうせ実家にいても寝っ転がってスマホをいじる位しかやることないし、それなら外に目を向けたほうがマシってもんです。
それにしても思うのは、時の流れの残酷さを感じる場面が年々増えてきたことですかね。
例えば自分の地元、新しい建物ができたな~と思ったら老人ホームばかりとか、人口減少が激しかったりとか、実家を出た当初から見ても寂れっぷりが進んでいると思います。
あと昔よく行ってた実家の近所にあるラーメン屋、久々に食べたら味が落ちててガッカリしました。
バイトっぽい女の子が湯切りをしていて、その横で店長がだべってばかりで嫌な予感がしていたんですが案の定でした。
こういう身近なところから、地元のさびれぶりというか、地方の衰退ぶりをまざまざと感じたりしますよね。
何より自分はもちろん、両親やおばあちゃん達も年をとったなというのがデカいですよ。
父親の白髪がだんだん目立ってきたり、おばあちゃんたちのボケが年々進んでいたり、耳がだんだん遠くなってたり。
僕のおばあちゃんは父方も母方も存命(おじいちゃんは両方既に逝去)で、ともに90代を迎えています。
まだ元気に1人暮らしできているみたいで何よりですが、明らかにボケが進んできているので、いつ自分の名前を忘れ去られるかなんて考えると怖い(笑)
医師の診断によれば、単なるボケの一種で認知症ではないらしいですが。
帰省して友人同士で会っても、同級生の結婚話や、僕の高校・大学時代の恩師が40~50代で急死したなんて話が、30代になってから増えてきたなと感じます。
自分の友人たちは大半が独身だし家族も今は元気なので焦りは特にないですが…。
なんというか、自分に残された時間って思ってるよりずっと少ないのかも…と感じざるを得ません。
まぁ人間死ぬときは案外あっけなく死ぬものだと思ってますし。
僕の父方のおじいちゃんは、僕が小学校低学年ぐらいの時に亡くなりました。
亡くなる1週間ほど前まで僕と遊んでくれてたのに、それから容体が急変して治療の甲斐も虚しく亡くなってしまいました。
「おじいちゃん、死んじゃった」
その死のことは、電話越しで父から案外あっさり伝えられたような感じを受けたのが印象的でした。
僕の父がどんな心境で伝えたのか今はもうわかりませんし、自分がその立場になる想像もつきませんが…。
当時はまだ感覚的に死を理解できてなかったんですが、親しい人間でもいつか必ず死ぬし、その時期は突然やってくるのだと学んだ出来事でしたね。
まぁ最低でも年1回は帰省して顔見せするのは、これからもしっかりやろうと思いましたよ。
自分もいつまで家族に元気な顔を見せられるかわからないのでね。
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